コロナ禍で前景化した日本人の弱点

共同代表の長尾です。

5/8から新型コロナウイルスは、5類相当の扱いになり、やっとコロナ禍が名目上終了することになりました。

私たちは3年以上、「新型」コロナウイルスに生活を左右され、大きな社会混乱となりました。特に日本は、他の先進国と比べて脱コロナが著しく遅れ、それは他国に嘲笑されるほどです。「他国のことなど気にせず独自路線を貫けば良いのでは」という主張にも一理あるかと存じますが、今回は、なぜここまで日本人が脱コロナに至るのが遅くなったのかを社会的視点から考えていきたいと思います。

今回は僭越ながら、私の尊敬する、文芸批評家、浜崎洋介先生の例をもとに解説していきます。浜崎洋介先生は、文芸批評家として活躍され、京大の藤井聡教授が編集長をお勤めの、表現者クライテリオンの編集委員もお務めです。浜崎先生の新刊『ぼんやりとした不安の近代日本』ぜひお読みください。

結論から言うと

『コロナ禍は、日本人が空気感による支配から抜け出せないことを露呈した』

と言えるかと思います。

ここで言う空気感とは、社会全体が価値判断の基準となるクライテリオン(基準)を失ったことで特定の意見のみが社会に蔓延し、その結果主体性を失った状態を指します。

具体例で考えましょう。

浜崎先生は、学校で起こるいじめを基にこの空気感を解説されています。

先生のいなくなった教室で、クラスの中心となる声の大きな生徒が

「あいつ虐めようぜ笑」

といって虐めを始めると、大多数はいじめが良くないとわかっているのに、誰1人として静止できない。むしろ同調して虐めを始めてしまう。虐める空気感に一度なってしまうと合理性を失い、それが各々の主体性をも失う。結果として、非合理的な行為が継続される

これが空気感の恐ろしさです。

これに近い状況がコロナ禍にもありました。それがマスクです。欧米では、マスクを早々に外していましたが、日本ではいまだに過半数を超える日本人が着用していることが多い状況です。しかもなぜ着用しているかと言うと、他者を思い遣って感染させないため、ではなく、本当は外したいけど、周りがつけているから私もつける、というような主体性のない理由が根強く残っているのです。私自身、マスクを自由にする会で活動している時、「君たちの考えには賛同するけど、周りが外さないと自分も外せない」というご意見を頂くことが多々ありました。

マスクをつけている理由が、主体的に考えた結果マスクをつけることが合理的だったから、であれば(今回の空気感という観点においては)問題ありません。しかし、マスクをつけている理由が、周りがつけているから、などといった客体的なものであれば、それは主体性を失っているということであり、社会全体が誤った方向に加速することを象徴しているという意味で、悪い状態であると言えるでしょう。

古代ギリシアの都市国家アテネは、民主主義を早くから実践したことで知られています。しかしながら、デマゴーゴスと呼ばれる扇動政治家(先ほどの例で言うところの、声の大きないじめっ子)により主体性を失った空気感が醸成され、衆愚政治が展開されました。そして最後、滅んでいった…というのは有名な話です。


浜崎先生がわかりやすく空気感について解説されている動画

https://www.youtube.com/watch?v=Py1hTwSFib0


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